つくる会内紛――そういう説も以前出ていましたが。

そもそも「怪文書」は存在しなかったんじゃないか
http://group1984.blog119.fc2.com/blog-entry-47.html


>東京地検は捜査の基本中の基本として当然、
>NTTのデジタル交換機に残されている
>西尾幹二氏宅の電話回線のログで発信元を調べているはずだ。
>ところが、該当する通話履歴はなかったという指摘だ。

民事提訴の時期が遅かったので(怪文書発生時から約1年4ヵ月後)、
電話回線のログは保持期限を過ぎて消失していた……
という話も出ていたと思います。

加えて、不起訴になった4人は、
全員が怪文書に関わった疑惑で訴えられた訳ではありません。
(少なくとも1人は完全に「シロ」です)

更に、怪文書の存在を証明出来なかったなら、
八木裁判での原告の証言も嘘だらけということになる。
八木裁判の方も不起訴になっていなければならない。
しかし裁判は行われ、怪文書についての証言は、次々に行われました。


そもそも、藤岡信勝氏が裁判を起こした時期が遅過ぎました。
(私はこの「遅れ」を非常に残念に思っています)
2006年4月末に八木先生達が「つくる会」を退去してから、
2007年7月に藤岡氏が八木先生を提訴するまでには、
約1年2ヶ月の期間が空いています。

この期間に藤岡氏は、小林正会長や扶桑社との「暗闘」を続けていました。
そして扶桑社と決裂し小林会長を「除名」し、
自らが「つくる会」の実権を掌握した段階で、
(満を持して?)八木先生を法廷に引きずり込んだのです。

何故、こんなに期間が空いたのでしょうか。

本気で訴えるつもりなら、関係者の記憶が鮮明なうちに、
(そして原告の怒りが冷めやらぬうちに)1日でも早く訴えるのが当然です。
時間が経てば経つほど勝率もモチベーションも落ちます。
しかも、その途中の2006年秋頃には、扶桑社を介して「つくる会」と再生機構が
協働する動きもありました。両者は終始対立していた訳では無かったのです。


私の推測は、以下のものです。

内紛から1年2ヶ月後に藤岡氏が提訴に動いた理由は、
この訴訟が、組織の維持拡大の為の戦術の一つとして発案されたものだったからです。
最終的に扶桑社と手切れをした「つくる会」藤岡陣営による、生き残りの為の手段だった。

この裁判の目的は、勝つ事では無く、「八木陣営へのサボタージュ」にありました。
つまり、裁判終了までは八木理事長に「被告」という肩書きを被せる事が出来るので、
再生機構のイメージダウンを行える。
また、「八木再生機構」という共通の敵を設定し、そこに会員の怨嗟を集中させることで、
つくる会」の組織の意思統一と連帯を図ることが出来る。
……という、一石二鳥の策です。
少なくとも、裁判が続いている間は、
再生機構を弱体化させ、つくる会を強化することが出来ます。

(証拠不十分で)確実に敗訴することを除けば、実に巧い作戦でした。
そして後のことを考えなければ(この「業績」は消えずに残り続けます)。


怪文書があったのか無かったのかは、最早分かりませんし、どうでも良い事です。
(こうした内紛劇は、核になる当事者以外は、殆どの人が興味を持ちません)

最も重要なことは、
検証可能な確実な証拠が無いまま、(保守内部の)政敵を貶める為に裁判を利用した人物が、
保守界の重鎮として今も君臨している事実です。