『ゆるゆり』10巻発売〜茶室から広がる宇宙〜


ゆるゆり』の基本パターンは、主要キャラクター4人が茶室に集まって、
取り留めのない話を延々と続ける、というものです。

こうした、特定の場所に主要キャラクターが集まる、「たまり場を作る」手法は、
見る者に安定感、安心感を与える、日常系作品には欠かせません。
逆に、場所や状況が頻繁に変わると、作品の雰囲気が不安定になる。


キャラクター達がテーブルを囲んで取り留めない会話を続ける、
その会話に出て来る様々な場所やシチュエーションを映像化することで、
部屋の中にいながら「無限の広がり」が生まれる。
それが日常系の真髄です。

その広がりは、登場キャラクター達の想像力に比例する。
つまり、クリエイターの想像力に、全てがかかって来ます。

会話に合わせて、勇者の剣が出て来る、
背景にジェットコースターが出て来る、周囲が極寒の雪原になる、
といった演出に対して、「リアリティが無い」と言って怒る人はいません。
キャラクターは部屋の中にいながら、場面は時空を越えてどこまでも広がる。


正直に言って、10.5巻は「所詮おまけレベル」の出来に感じました。
疎遠なキャラクターを無理に絡めようとするなど、脇役による群像劇はぎこちない。
だが10巻は、最近の巻の中でも出色の出来です。


10巻と10.5巻の決定的な違いは、10巻は京子を中心に回した話が多いことです。
作品としての『ゆるゆり』が面白さを保つには、京子を中心に話を展開することが不可欠である。
但し、そうするとキャラの出番が偏るので、京子抜きの場合は櫻子を使うしかありませんが、
櫻子では明らかに、スケールが一回り落ちる。
メインを張るには役不足の前座芸人という印象が拭えません。

また、高校生以上のサブキャラを深く扱うと、年齢層が高過ぎて洒落で済むレベルでは無くなり、
同性愛推進のイデオロギーが表面化して、商業ベースとしては問題の多いものになってしまう。


そのような訳で、残念ながら『ゆるゆり』は、京子をメインで使うことで初めて面白い作品に成り得るのです。
この結論は非常に残念ですが、「主人公」という立場は、そういう内容面とは別の存在として考えるしか無い。



ところで、久し振りに『百合姫』を見たら、
あくまで「架空の娯楽作品としての百合」を好む男性キャラを描いていたはずの『百合男子』が、
単なる同性愛推進のプロパガンダに成り下がっていました。
ゆるゆり』が最新話も安定していることとは、対照的です。

同誌のスタッフコメントを見る限り、
いわゆる男性向けの「美少女動物園」の市場に食い込んで行きたい編集長と、
原理主義的な同性愛推進及び男性排除に傾斜する他の関係者との間には、温度差があるようです。
掲示板が荒れているのも、その構造的矛盾が原因なのでしょう。

この軋轢を解決するには、『ゆるゆり』は一般向け雑誌に移籍させて、
百合姫』は極小部数の原理主義雑誌として留め置くしか無いでしょう。
ゆるゆり』を客寄せパンダのように扱ってカテゴリーの違う客への拡販を続けても、不満が拡大するだけです。