「多様性」という詭弁


「多様性」「多様化」「多様な生き方」といった単語が、
政治関係で、詭弁を補強する為に、頻繁に使われています。
が、それらは決して、神聖不可侵な代物ではありません。

あるべき多数派の姿は、厳然として存在します。

何故なら、「マイノリティー」が自由に物を言える為には、
「多数派」が社会を支え、安定させていることが、不可欠だからです。

「物理的、精神的な資源」を社会に供給しているのは、
安定して続いている、日本の伝統的家族です。

例えば「欠損家庭」が尊重されて存在出来ているのは、
三世代家族に象徴される日本の伝統的家族が、
日本社会を物心両面から安定させて、支えているからです。


社会全体におけるマイノリティーの比率が増加すると、
経済的なコストが飛躍的に増大します。
例えば、多言語への対応を全ての官公庁や企業に強制するだけでも、
天文学的な数字になる。
それは民間企業に凄まじい負担をかけ、
特にこれまで日本を支えて来た老舗や町工場などの中小企業は
全て倒産に追い込まれるでしょう。

マイノリティーは、ごく少数に留まっているからこそ、
大多数のマジョリティーによって支えられ、尊重されることが可能なのです。



日本の伝統的家族は、単に経済効率や生産効率が高いだけで無く、
老若男女の違いを浮き彫りにするので、
「本質的な平等」の意識を育てる為に適しています。

https://twitter.com/yatagawaosamu/status/638930696854044672
>谷田川惣@yatagawaosamu 自由や権利は秩序あるところにのみ存在できる。
>秩序とは歴史的な積み重ねによって築かれていくもの。
>左翼の言論を保証しているのも日本の秩序。
>自分たちの言論の自由を守ってくれている歴史や伝統を否定している左翼は
>お釈迦様の手の上で暴れている孫悟空と同じ。まさに手の内にあるのだ。


人類と動物の違いは、(文字または口伝の)言語を使った「継承」にあります。
継承とは、単に知識を伝えるだけでは無く、
「人間は、祖先から続いていて子孫へと続いて行く」という、
「縦軸の哲学」を受け継いで行くことです。

この「縦軸の哲学」を人が意識する為に最も必要な存在が、
祖先から続いている安定した家族です。
「お天道様が見ている」といった、祖先への意識が、
人格や社会性、道徳などの核になります。

逆に言えば、孤児や、駄目な親への敵愾心等で、
祖先や子孫への意識が希薄な人ほど、
精神的に不安定になりやすく、
犯罪や反社会的行為を起こす確率が高い。



日本が異民族に対して歴史上寛容であること、
多神教文明特有の受容性の高さの原動力は、
日本海を隔てた島国ゆえの安全性(敵国による凄惨な侵略を受けていない)
や、村社会的な同調圧力にあります。

ですから、日本人が許容出来る多様性とは、
あくまで「歴史が育んだ日本人的な価値観」に収まる範囲に限定されています。
「日本人が日本人らしく存在し続けられる」という、
絶対的な安全や安心の保証が前提になっています。

が、明治以降流入して来た、「一神教的、唯物的な価値観」は、
明らかにそれまでの日本を否定し敵対し破壊しようとする「侵略者」に他ならず、
現在も日本の多神教文明と国民性は激しく揺らいでいます。



男女観に限って述べれば、
特定のイデオロギー保持者が主張する「多様性」とは裏腹に
「あるべき男性像」「あるべき女性像」の需要は、
常に変わらず一点に集中しています。

斬新なブスに勃起し続けることの出来る男性は存在しません。
また、ひと握りのありがちなイケメン像に
大多数の女性が入れ込む現象からも、それは明らかです。



特に公的な機関においては、今後「多様性」という単語の、
詭弁への安易な転用は、厳に慎むべきです。