名文「さらば安倍晋三、もはやこれまで」(中西輝政名誉教授)

(『歴史通』2016年5月号)

素晴らしい論稿です。要旨は概ね、

「安倍政権を動かしているのは、岡崎久彦氏を始めとする外務省親米派
「安倍政権は、安保では右だが、歴史認識では左(対米追従路線)」
「中西氏が安倍総理のブレーンであったことは一度も無い」
安倍氏は徹底してドライな現実主義なので、理想主義的な傾向もある保守では無い」
「知識人は政治に関わり過ぎることで、言論を萎縮させてはならない」

こんな感じです。



「安倍政権になったのに、保守陣営の有識者や運動家が、殆ど登用されていない」
「未だに、北岡伸一氏のような人が、政権の中枢に居座り続けている」
「家族政策も、社民党反日活動家の主張と殆ど同じ」
「外交や国防、震災では頼もしいけど、アベノミクスは破綻しかけている。金持ちの方しか向いていない」


私のような保守寄りの一般人でも、安倍政権の主張と行動には、何となく疑問を抱いていました。
今回、長らく『安倍政権のブレーン』の1人とされてきた中西先生の「暴露」によって、
色々なことが、腑に落ちました。



「安倍政権を動かしているのは、(故)岡崎久彦氏を始めとする外務省親米派である」



「安倍ブレーン5人組」と言われた方々(岡崎久彦氏、屋山太郎氏、中西輝政氏、伊藤哲夫氏、
八木秀次氏など……出典によって多少入れ替わる)の中で、本当に安倍総理のブレーンだったのは、
岸信介の時代から「安倍三代」に仕えて来た岡崎氏だけで、他の方々は弾除けに利用されただけだった、
という点は、私も長い間、誤解していました。

また、『選択』という自称硬派の雑誌による、逞しい妄想の数々には笑いを禁じ得ませんでした。
蛇足ですが、現在、日本会議の支柱と言える学者は、百地章先生と高橋史朗先生だと思います。



それでも、憲法改正が実現するまでは、団結して行くべきだと思います。
今の私達がすべきことは、安倍総理憲法改正にやる気を出せるように、
世論での多数派形成の為に世論喚起を続けること、それが最善です。


が、憲法改正後に来る(されなくても来るであろう)
「その次の戦い」の時には、敵味方がどう分かれるかは知りません。



以下の論稿を併読すると、分かりやすい。

歴史を見る目歪める「北岡発言」 埼玉大学名誉教授・長谷川三千子
http://www.sankei.com/column/news/150317/clm1503170001-n1.html

>≪定義づけのない「侵略戦争」≫

> 日本が侵略戦争をしたのか否かという話を政治の場に持ち込んではならない−
>これは単に、そういう問題は歴史学者にまかせておけばよいから、というだけのことではありません。
>もしも本当に学問的良心のある歴史学者ならば、そんな問いには答えることができない、と突っぱねるはずです。

> なぜなら「侵略戦争」という概念そのものが極めていい加減に成り立ったものであって、
>今に至るまできちんとした定義づけがなされたためしはないからなのです。


帝国主義の時代の「単なる力の差、勝ち負け」に過ぎない話を、
「善悪」の問題に「すり替える」ことによって、
戦勝国は、自分達が正しいから勝った、と宣伝しています。

もちろん、正しいから勝ったのでは無く、単に強いから勝ったに過ぎません。
人類は、「ある程度文明が成熟している」と自認するのなら、
「強者=善」「弱者=悪」という、原始人レベルの思い込みを止めて、進化するべきです。

第二次世界大戦の場合も「たまたま力が強かったから、連合国側が勝ったに過ぎない。
日本人は単細抱の12歳だが、それゆえ純粋で善良だった」
といった、より文明的な正しい解釈が全世界で共有されるには、相当時間がかかるでしょう。

何故なら、欧米中韓一神教圏には、まだまだ「人の皮を被った肉食動物」が多く、
その一神教的な考え方に感化された日本人が、日本社会に蔓延しつつあるからです。


長谷川三千子先生が「決して使ってはいけない」と言われたその言葉を、
安倍政権は、「答弁書」の中で使ってしまいました。



現在の保守論壇の萎縮は、相当酷くなっています。
西尾幹二氏のような人が暴れられていた時代が、懐かしく感じられます。
そういうタイプの人は、陣営の活性化の為には、必ず必要なのです。

だからこそ、保守系知識人の中にあって最も冷静かつ慎重な論者の一人である中西先生が、
敢えてその立場に立たれるしか無かったのではないか。

これは間違い無く渾身の一稿です。が、保守系知識人の方々には黙殺されています。



今回、とあるメーリングリスト上での、ある運動家の方の素晴らしい御主張に感化されて、
珍しく論壇誌を手にして読みました。


『たとえ自分の目の黒いうちに実現することはなくても、延々と「戦いの火」を受け渡してゆこう』

終盤のこの一節は、胸に突き刺さりました。
私も、家族政策における現在の荒廃振りに、似たような思いを抱いているからです。